途中入部ながら、並大抵ならぬ努力で明治DFの要に成長した、暸から回ってきました。4年OMFの福元駿文と申します。彼のロング並みの対人力と意識外から来る巻きチェックに何人のオフェンスが苦しめられたことか、、、味方で本当に良かったと思います。
彼を相手にする対戦校の皆さん、ご愁傷様です。
まずはじめに、日頃より弊部に多大なるご支援をいただいておりますOB・OGの皆様、コーチの皆様、並びに保護者の皆様をはじめハスキーズに関わって下さる全ての皆様に、この場をお借りして心より感謝申し上げます。
私はあまり自分の話をするタイプではないのですが、せっかく頂いた最後の機会なので、素直な思いを綴らせて下さい。長くまとまりのない拙い文章で、身のあるものではありませんが、最後まで読んでいただけると幸いです。
「やばいところに来ちゃったなぁ」
同い年より少し長い受験生活が終わり、限りある大学四年間を無駄にしたくない、そんな想いで恐る恐るハスキーズの門をくぐってみた感想は決してポジティブではなかった。
まず朝が早すぎる。今まで始発とは無縁の人生を送ってきた自分にとって、明日からいきなり週三、始発で練習に来いと言われてもなかなか厳しいものがあった。清瀬ってどこですか?てっきり大学で練習するもんだと思ってたんですけど。
次に部費が高すぎる。防具諸々で初期費用は高くなるよとは聞いていたが、防具を買った後も三万、四万の月がざらにあったような気がする。母にはよくお坊ちゃんのスポーツだねとよく言われた。今まで総額いくら払ってきたのだろうと考えてみたが、怖くなってきたのでやめます。
そして何より、痛い。これが一番心に堪えた。
「あー青くなってるからただの打撲だね、冷やせばやれるよ。」
当時の四年生マネに、泣きそうになりながらチェックで腫れ上がった肘を見せた時に言われた言葉は今でも忘れない。
こっちは誰にも邪魔されない、白線の引かれた陸上トラックしか走ったことないんです。
逃げたいと思った瞬間、もう無理だと思った瞬間は正直何度もあった。その度に当時の学生コーチだった、そうたさんに相談した。その節は大変ありがとうございました。そうたさんのお陰でなんとか四年間終えられそうです。
そんな一年生時代の中で、敢えて転機を挙げるなら一年のウィンターの中央戦。最後の最後でなんとかαに食い込み出場した試合で、チームの勝利につながる先制点をとった。
あの時のランシューが決まったときの感覚、先輩たちの歓声、駆け寄ってくる同期の笑顔(だいぶ記憶の中で美化されてる)がどうしても忘れられない。その試合を終えてようやく決意できた。やめようと思うのやめよって。
きっとあの熱い瞬間をまた味わいたくてなんとか踏ん張れたと思う。
初めてAチームに絡めたのは2年生の春、ウィンターを経て順調にステップアップかと思われるが、呼ばれたポジションはssdm。当時のAチームのブレイク力不足を埋めるため、最低限のOF力と足の速さをかって頂いた。
しかしながら、これが全くもってダメダメだった。当時のDFリーダーだったよしきさんにマンツーマンでDF組織を教わったが、要領の悪い自分には非常に難解だった。頭でわかったと思っても実際に66でプレーすると誰がどう見ても自分が穴になっていた。楽しくないラクロスにまた逆戻り。ミーティングで自分の醜態がさらされるのが怖く、余計に委縮してしまった。今振り返れば、先輩方が自分に期待し、成長を促してくれているからこそなのに。よしきさん、期待に応えられず申し訳ありません。ただあの時Aチームの強度や練習を経験できたことが大きな財産になりました。本当にありがとうございました。
あすなろをssdmとして出場した後、自分の中で二つの分岐点があったと思う。このままssdmとしてやっていくのか、きっぱり諦めてオフェンスに戻るのか。確かに当時Aでは試合に絡めていなかった。ただ、だからと言ってオフェンスに戻るのは逃げなんじゃないか。これまでの数か月が無駄だったと認めるのが怖い自分もいた。
そんな悶々としているときに相談に乗ってくださったのが当時の4年生でATでありながら、Bリーグを前に後輩の出場機会のためにssdmに転向したりくとさんだった。
りくとさんには「チームにとってどうとか関係なく、自分がどうなりたいかで決めないと絶対後悔するよ。」と言われた。誰よりもチームや後輩のことを考えてポジションを変える決断をしたりくとさんの言葉はとても重かった。
やっぱり自分は点でチームに貢献したい。
そこにはやっぱりオフェンスとして下級生の時からAで活躍する同期たちへのあこがれがあった。
でかい、はやい、うまい、三拍子揃ってるやつ
なにやらせてもそつなくこなしちゃう器用なやつ
下級生なのに大舞台で堂々としてるやつ
そんな彼らをスタンドで見る姿はどうしようもなくまぶしく映った。自分もそうなりたいと強く思った。そうしてOMFとして再始動した後は、決して順風満帆だったとは言えないものの、りょうすけさんをはじめコーチの方々やアドバイスをくれた同期たちのおかげで結果的に3年生で六大戦とリーグ戦を経験させていただいた。
周りの方々のおかげで自分の能力とは不相応な貴重な体験を四年間させていただいた。4年間を振り返って率直にそう感じる。
偉そうなことを言える立場に全くない自分が下級生のみんなにあえて伝えるなら、「自分だけにしかない武器を見つけてほしい」ということ。これはBで燻ってた時に、さんざんりょうすけさんに言われたことだ。なにか一つでもAチームのあの選手に勝てる、これだけは絶対に負けない武器を磨くこと。きれいな五角形の能力値をもつ人も正直世の中いる。でも現状自分がそうでないなら、きれいな五角形を目指して中途半端になってしまうくらいなら、一項目だけ飛び抜けた歪な五角形でいい。自分にとってはそれがスピードだった。
コーチ陣をはじめ周りに自分がどんな個性を持ってるかアピールすること、そしてAチームでプレーすること。そうすればうまい人たちとプレーする中でだんだんとプレーの幅も広がってくると思います。
絶対に負けられない早稲田戦。
DFが少しでも休めるなら、エースが少しでも決定機でボールを受けれらるなら、自分の足が壊れるまで走りまくります。もちろん脇役で終わるつもりはないけどね。
さぁ勝とう。
最後にこれまで自分を支えてくださった皆様に感謝を述べたいと思います。
母へ
これまで自分を育ててくれてありがとう。自分で勝手に選択したラクロスのせいでたくさん甘え、迷惑もかけてきました。それでも多方面で自分を支え、毎試合応援を楽しみにしてくれていることに感謝してもしきれません。これから長い時間をかけて親孝行させてください。
これまで関わったすべてのコーチの皆さんへ
自分一人では絶対できないような経験を四年間させていただきました。それもすべて時には厳しく、時には優しくアドバイスをくださった皆さんのおかげです。こんなにも濃密な大学生活を送ることができました。本当にありがとうございました。
35期のみんなへ
4年間なんとか部活を続けられたのは、なんだかんだ言ってみんなのおかげです。紆余曲折あったけど今はこの部活に入って正解だったと心から思います。そしてこれを大正解にするためにも、絶対にみんなで勝って日本一になろう。頼もしいみんなとなら絶対できると信じてます。
そして中でも一番時間を共にしたやじへ
一緒にAでプレーしたかった。それだけが心残りです。誰よりもやじが努力し、必死にもがいていたのを知っているから。最後にはやじのような努力家が勝つと信じていたから。でも誰よりも悔しい君が今コーチとして下級生のお手本となろうとしている姿にやじの強さがあると思う。引退したらたくさん遊ぼう。あとギター教えて。
後輩のみんなへ
みんなのおかげでつらいことも全部いい思い出です。こんな下手くそな自分にもアドバイス求めてくれたり、慕ってくれる後輩たちがたくさんいて幸せでした。日本一の景色を見せてあげようなんて偉そうなことは言いません。みんなと一緒に勝ち取ろう。
スタッフの皆さんへ
ラクロスとは違うベクトルで大変な業務ばっかりで自分には到底できないと心の底から尊敬してました。スタッフの支えあってこそのハスキーズです。これからもよろしくお願いします。
次はこどもの国のエゴイスト、脇直太朗です。彼とは同じ学部、同じクラスで一緒に授業を受けることも多く、今でも卒業をかけて共にスペイン語のクセ強教授に立ち向かっている戦友です。A、Bで様々な経験を経て、今シーズン最も成長を遂げた選手の一人である彼がどんな想いを秘めているのか注目しましょう!
#31福元駿文