萩田真衣さんから回ってきました、huskies1のおしゃれ番長、4年の黒澤明央です。
彼女は、普通の人間とは0.5倍速で行動しているほんわかタイプの人ですが、最上級生になった今、彼女のチームに対する声掛けによって多くの人が練習に対する態度を改めるようになったのではないでしょうか。また、たまに見せてくれる彼女の甥っ子ちゃんの動画に私も癒されております。中央戦では、そんな彼女の魂の声に注目して頂ければと思います。
まず初めに、日頃より弊部に多大なるご声援とご支援をいただいております保護者の方々やOB・OGの方々、そして全ての関係者の皆さまに心より感謝申し上げます。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。
気がつけば引退のブログを書く時期になっていました。
長いようで短いようなラクロス人生、学生生活4年間が終わろうとしています。
高校までサッカー部に所属し、当たり前のように毎日激しい練習をして、男しかいない環境で意味もわからず走り続けていた自分にとって、大学でもそんな環境を求めて、体育会への入部しか考えていなかった。日々成長を感じ、周りの高いレベルに必死に食らいつく、あのヒリヒリ感を求めていた。
入部当初、自分は1日3時間に壁当てに行ったり、学ランを着たラクロス部に声を掛け、少しでもラクロスが上手くなるようにと努力をした。初めの頃は、全てがうまく行っており自分がこのまま日本代表になったり、チームの中心になることは確実だと思っていた。
しかし、コロナに罹り、夏合宿に参加できなくなった頃から歯車が狂ってしまった。
合宿から帰ってきた同期たちは見違えるように上手くなっており、自分の情けなさを痛感していた。
サマーでもこれと言った活躍ができるわけでもなく、そのままうまい奴との差は広がっていった。
そんな時、私の師匠である隆之さんが、SSDMというポジションを教えてくれた。
守備と攻撃を両方ハイレベルにこなせる選手であり、最も身体能力に長けた、唯一無二の選手がやるポジションだと。
私は昔から、唯一無二という言葉が大好きであり、このポジションで輝こうと決意した。
2年生の頃から、試合のメンバーとしてリーグ戦に関わらせてもらい、去年のリーグ戦では、自分の武器を表現することができた場面もあった。来年こそは、最高の同期と、そして後輩たちと日本1を目指すために、自分もその一端を担うことができると確信していた。
代替わりがあり、最初の2ヶ月は、自分でも最上級生として自覚を持ち、毎日練習に向き合い、成長していることを実感し、毎日が楽しかった。
しかし、そこから度重なる肩の怪我に悩まされた。復帰しては、また同じ場所を怪我。左肩が治ったと思ったら、右肩を怪我して。今思えば全然大したことないじゃんって思うけど、その当時は辛くて、涙が出そうになったこともあった。
春合宿で再びプレーすることができ、六大戦で活躍することを心誓った矢先、右膝に違和感が出てきた。
練習で走るたびに痛くなり、全力で走ること、切り返すことができなくなってしまった。庇いながらプレーすることで、自分の全力は出すことはできなくなり、六大戦でのパフォーマンスはひどいものだった。
そしてある日、右膝に今までにないほどの違和感を感じながら、試合で結果を出さないといけないと臨んだ試合で、足を踏み込んだ際、足に力が入らなくなった。激痛に見舞われ、夜も寝られず、翌日に救急でかかった病院で、右膝半月板断裂の診断を受けた。
今までのスポーツ人生で経験したことがない大怪我。それでも、試合で活躍することを諦めることはできず、引退はせず、すぐに手術に踏み切り、リハビリ生活が始まった。
手術後、筋肉が全くなくなり、細くなりきった右足を蘇らせるために、笠間さんやトレーナーにたくさん手伝ってもらって、たくさんリハビリをした。練習に行った4時間があっという間に過ぎるくらい夢中でやった。
オフの日もジムに行き、椿さんから借りたチューブでひたすら足を引っ張り続けたり、重い重量を扱えないから、ひたすら体重くらいの重量でスクワット繰り返し、エニタイムのトイレで吐いたりもした。
今まで力を入れてこなかった、下半身のトレーニングにハマり、体の使い方や膝に負荷がかかりにくい走り方を意識し、ネイマールのような歩き方も手に入れた。
夏合宿から本格的に練習に復帰し、徐々にプレーしていた頃の感覚を取り戻していった。
しかし、自分の中ではわかっていた。あの頃のように全力でプレーできないと。
右足の筋力がまだ戻りきっておらず、全力で走れない。右足を庇って、左足で動くために、左足がパンパンになって走ることができない。もう体が戻ってこないのだと。
そして、私は中央戦のメンバーには入らないことになりました。
私は、ここを1つの区切りとすることを決めていた。
「引退」の2文字が常に頭をよぎっていた。
もう十分やりきったんじゃないか。
しかし、私は再びあの舞台を目指して戦うことを決めた。
そう思えたのは多くの人のためにプレーしたいと思ったからだ。
試合でプレーしている姿が見たいと言ってくれる1年生のみんな。練習のせいで、土日の出勤ができず、迷惑をかけっぱなしなのにも関わらず試合の日程を聞いてくれて応援に来てくれそうなスタバの店長。そして何より、東京で1人暮らしをさせてくれて、ロクに自分でお金を稼ぐこともできないのに、高い費用がかかる部活を続けさせてくれる両親。そんな人たちのために私は戦い続けたいと思う。
満身創痍で走り続ける私の姿を少しでも応援していただけますと幸いです。
非常におこがましいですが、私が最高の状態になるには、時間があれば時間があるだけいいので、次の中央戦はもちろん勝ってもらいたいと思います。絶対勝てよ。勝って優勝しようよ。あと少ししたら、俺がこのチーム勝たせるから。
最後にお世話になった人たちにメッセージを書きたいと思います。
DFのみんな
迷惑ばかりかけてごめんなさい。クリアの時に、みんなが僕のランクリを信用して(?)パスを出してくれる瞬間がすごく嬉しいです。
OFのみんな
OFでもプレーしたことがある自分にとっては、OFのみんなも仲間です。ブレイクして、ATのみんなと攻める瞬間が、ラクロスの中で1番好きな瞬間です。角からのガンダS字必要になったら言ってね。
スタッフのみんな
プレーヤーと比べて比じゃないくらい、たくさんの仕事をこなしてくれて有難うございます。これからも無理だけはしすぎずに頑張ってね。
トレーナーの皆さん
笠間さんそして、学生トレーナーの方々、このリハビリ期間非常にお世話になりました。皆さんがいなかったら、自分は再びピッチに戻ることはできなかったと思います。リハビリで辛い時に、笠間さんの本当に年上かとも思える冗談、意外と救われました。
学生の皆さんも、テーピングやマッサージなどたくさんお世話になりました。みんなも無理し過ぎず、あと少し頑張ってね。
1年生のみんな
自分がリハビリ期間の時に、1年生の練習を見させてもらって、ひたむきに練習に向き合い、上手になろうとする姿とか、たくさん練習中に話しかけてくれるクソガキなみんなのおかげで、おじさんはとても元気になりました。あきおさんが試合に出ている姿が見たいですってたくさん言ってくれて嬉しかった。みんなのためにも頑張ろうと思えた、有難う。けんごとか、りんたろうとか、怪我で手術して大変だと思うけど、笠間さんとか、トレーナーとか頼って、まずはしっかり怪我治して活躍する姿見せてね。
みんなでサマー絶対優勝しよう。
脱力部のみんな(とみい?)
君たちがいなかったら、私はとっくに居なくなっていました。何考えているかわからないと言われて気持ち良くなっているけど、実は何も考えてない単純な奴、常に自分がかっこいいと思われるためだけに行動する、関西弁で華奢なインキャな奴。君達と過ごす時間が、1番大好きです。引退したら、たくさんいろんなとこ行って、いろんな脱力方法見つけよう。
バイトのみんな
膝の怪我で明らかにテンション低い自分に対して、優しい言葉をかけてくれる店長、トレカ買うよって言ってくれた将太郎、試合見に行くよと言ってくれた同期のみんな。必ず復活して活躍します。引退後はたくさんシフトに入って、スーパーバリスタになるのであと少し見守っていてください。
最後に家族へ
16年間のスポーツ人生を支えてくれて本当に有難うございました。中高時代は毎朝早くに起きて、朝からのラントレにブチギレながら向かう自分に、美味しい弁当を作ってくれて送り出してくれ、試合で結果を残しても、「スポーツは自分を守ってくれないよ」と常に発破をかけてくれたお母さん。高い遠征費や、すぐに消耗する道具の買い替えでお金がかかる自分を支えてくれて、たくさんの試合を見にきてくれて、誰よりも自分が活躍する姿を待ち望んでくれているお父さん。そして、「死ぬこと以外かすり傷」をモットーに、強い女として生きる姿を見て僕を引っ張り続けてくれた姉貴。大学に入ってから、中々試合を見にきてもらえる機会は少ないけれど、最後は全国の舞台で活躍する姿を見せて恩返しすることができたらなと思います。黒澤家の名に恥じないように頑張ります。
僕はまだ「全国優勝」を諦めていません。
勝ちましょう。勝ち続けましょう。死ぬ気で。
さて次のブログは、湯モミの里の番頭、渡辺陽大です。
おそらく彼は、自分の情報を開示されることが嫌だと思うのでここでの紹介は割愛させて頂きます。
県立相模原高校野球部史上最高傑作とも謳われる彼がどんなブログを書くのか乞うご期待です。
よろしく!
#10 黒澤明央